谷崎潤一郎 「文章読本」

言葉を惜しむということ
最初読んだ時には
その意味がわからなかった
多くの言葉を紡ぎだすことこそ
むずかしいのではないのかと
しかし私たちの
目の前にある世界は
無限に拡がっている
書くべきことは幾らでもある
その中からエッセンスを
抽出して書くこと
これが大事なことなので
あろうと思う
谷崎は自身の著作においても
ここはもっと文章を
縮めることができたであろう
箇所を指摘し
そこに傍線を引いて
示している
谷崎の文体を見ると
言葉が意識の拡がりと共に
溢れだしてきているかの
ように見える
しかし実際には
谷崎は1日4枚程度しか
書けなかった
出版社数社に
それぞれ金を前借りし
少しづつ原稿を書いて
その借金を返していく
ひとつ義理を果たすと
またその次が待っていて
その果てしない
繰り返しだったという
そのエッセイでは
この文章も
そういった経緯で
書いているのだ
といった締めくくりが
為されていた
文章を紡ぐことは
やはり苦労なくして書けない
それでも言葉は
世界のエッセンスの抽出だから
みだりに言葉数を
増やすようではいけない
これは陰翳礼讃の思想にも
繋がってくる
谷崎でしか
決して語ることの
できなかった
哲学がそこにある

山際 淳司 「Give up―オフコース・ストーリー」

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組織においての
2番手というものの
存在の大事さを
大いに感じさせる
鈴木康博の脱退というものは
まさにそれを象徴する
出来事であった
小田が歌い始め
メンバーによる
コーラスがかぶさり
間奏では鈴木のキターソロが
繰り出される
これがオフコースとしての
王道パターンになっていたと思う
決して小田自身が
キーボードソロを
とることはなかった
小田の歌詞というのは
恋愛の中で
揺れる恋人達の
心情を歌っていて
とても微妙で
繊細な心の内を
表現している
これはもやもやっとした
形にできないようなもので
これがメンバー全員の
コーラスとしての歌声が重なり
鈴木のギターで昇華される
その心地良さ、素晴らしさ
この一連の流れこそが
オフコースのステージングを
決定づけていた
決して小田ひとりで
成立していたものではなかった
鈴木の脱退の意志が固いことに
気づいた小田は
もはや解散しかないと
思っただろうか
何度も思いとどめようと
しただろうが
鈴木の決心は揺るがなかった
「さよなら」のヒット以降
鈴木は曲作りに悩み
なかなか書けなかった
悩み、苦しんだ末に書けた
「いくつもの星の下で」
「一億の夜を越えて」は
鈴木の代表作ともなり
キャリアの中で
欠かすことのできない
これを語らずしては
鈴木を語れないほどの
名曲となりおおせた

2番手としての立ち位置を
割り切って演じることができれば
その後も5人のオフコース
存続はあり得ただろう
しかしそうできなかった
まさにそのことが
ファンのオフコースへの
愛情をより高いものに
押し上げる原動力でも
あっただろう

心を動かすもの
揺り動かされるものというものは
そういったものだろう
愛おしいものを語るように
昔を振り返るファンによって
語られる曲群は
今でもほとんど
5人のオフコース
あった頃までの
曲達ばかりである
そういった意味で
何十年も経った現在でも
鈴木の貢献は称えられ
その称賛の声は
未だに止むことがない

 

桜井晴也 「世界泥棒」

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第50回文藝賞受賞作

文藝賞は6回くらい
他の新人賞を入れると
19歳から応募し始めて
8年9年で、20回いかないくらい…
とおっしゃっているので
文藝賞受賞までには
かなりの期間がかかっています
決してわかりやすい題材を
扱っていない為
理解してもらうには時間がかかる
そういったことをあえて
やっていたわけで
これも本人としては
あくまで必然性のあったこと
なのでしょう
文体はフォークナーの
「意識の流れ」の手法に
近いとは思いますが
世界的には
こういった手法も
いろんなところで
今では数多く
取られているでしょうが
日本においては
このようなことが
まだ充分に浸透しているかどうか
わかりません
エンターテイメントとして
おもしろければ
それも認知されるかもしれませんが
純文学としての手法としては
まだそれほど認知されていない気もします
桜井さん自身が
こういったことを自覚されていたのが
それとも無意識に
おのれの内面の必然性のみを
梃子として
このような文体に至ったのか
わからないので
こちらとしては
ただただ推察するしか
ありませんが
おそらく書き手の頭の中では
意識の流れということは
単なる手法としてだけではなく
むしろこうすることが
自然で、あたりまえのことと
見做して扱わっている
そんな気がします
それだけ既に多くの
文学作品を
読み解いており
鍛冶場の使い慣れた道具のような
まさにそんな使い方である気もします
そういった意味で
彼は既に既成の
日本の文学界よりも
遥か先へ行ってしまっています
これが本当の意味で
世間的に認知されるまでには
まだまだ時間がかかるのでしょう

ひとりの人間の中の
背反的な二つの見方が
対立して
あの後半部の会話に
結びついている気がして
しょうがないのです
もともとあの二人の会話は
ひとりの人間の中にもある
葛藤そのものではないかと

それが最後まで
折り合わずに
折り合うことなく
ラストまで
流れていく
詩というものは
彼にとって
聖域のようなもので
ありますから
それが彼らを見つめる
(睨む?)のです
純粋なものを
ただ純粋なものとして
観られない者としての
(黒い使者としての)他者を
それと対比させながら

その物語は
後半に行けば行くほど
密度が濃くなり
その深みは増していきます
ちょうどレコードの針が
中心へ行けば行くほど
その1回転当たりの
速度を増していくように

もしこの作品が
文藝賞で評価された
そのノウハウを
ひとつだけ
指摘するとするならば
この濃度と圧力であり
巷に溢れているような
文学賞突破の
ノウハウのようなものとは
やはり一線を画すものです
つまり圧力というものは
ノウハウとして
伝えることはできません
ただそれがある、ということだけしか
言えないでしょう
ですからあえて言えば
それが=ノウハウとも言えますが
今の日本文学界に足りないのは
まさにその熱さのようなものです
だからかけているものこそ
今後の課題であり
問題点なのです
作家がタレント化すればするほど
そういったものから
懸け離れていきます
見かけの売り上げは
仮に凄まじかったとしても
批判もありましょうが
僕がまさに考えているのは
このようなことです

 

朝吹真理子 「流跡」

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先に出た単行本のデザインより
この文庫のデザインの方が好きです
格調高く、実に素晴らしい…

朝吹真理子
1984年12月19日生まれ
慶應義塾大学大学院国文科修了

プロフィールに
吉増剛造を囲む会での
スピーチを聞いた編集者から
小説を書くよう熱心に勧められた…とあるので
もともとは詩文学に深い造詣のある
人であったのかもしれません

「流跡」を『新潮』2009年10月号に発表
2010年には第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞

2011年、「きことわ」(『新潮』9月号)で
第144回芥川賞受賞

世間的には「きことわ」の方が
有名であるかもしれませんが
自分はむしろ今回紹介する
「流跡」の方を推します

もし目の前に例えば
ひとつの林檎があって
人としての意識が
はっきりしていれば
それを認識できる
しかし意識が朦朧として
それをはっきり知覚できなかったら?
その時そこに目の前に
林檎があるということは
その人にとっては
まるで意味のないことと化す
人間の意識以前の領域に
踏み込んだ作品が
まさにこの「流跡」ということです
それまでの小説は
意識された以降の事柄しか
扱ってこなかった
しかし21世紀後の文学では
こういった無意識以前の領域や
集合的意識のような分野まで
その扱う範囲が
拡がっていくのではないかと
そういった意味で
エポックメイキング的な
佳作であると感じます。
世間は朝吹さんの凄さに
まだ気づいていない
「きことわ」の文体も
確かに素晴らしいですが
本当に注目すべきは
この「流跡」であった
そういった意味で
歴史が変わる瞬間を
人々は見過ごしてしまっている
そんな気がします

文庫併録の「家路」も
素晴らしい小品で
無意識の領域に気づくことが
魂のありように気づくこと
それが人を幸せに導いていくこと
である気がします
そういった意味で
2014年に
この本が文庫化された時は
とても嬉しかった記憶があります
お勧めです